もう既にお気づきの方もいるかもしれませんが、日本人は自己肯定感が低い民族です。
あなたも私も含めた、日本人全体がそうなのです。
その原因は、日本が長い間、個人を尊重せず、社会的な役割を果たす事を優先する社会だったからです。
・男性は働いて家族を養いなさい。
・女性は家庭を守りなさい。
・子供は学校に行きなさい。
・国や地元に貢献しなさい。
・社会人としての役割を果たしなさい。
そして、現代の日本社会の中枢を担っている官僚、政治家、社団法人の代表者、大企業の経営者などは、最も自己肯定感が低い人達の集まりです。
実は、彼らエリートや成功者や勝ち組と呼ばれる人々は、私達よりも自己肯定感が低いのです。
そうは見えませんか?
見えませんよね。
なぜなら、彼らは自信にあふれているからです。
もちろん、人間関係や仕事の辛さ、肉体的、精神的なプレッシャーなどについては人一倍苦悩しているでしょう。
しかし、自己肯定感の低さについて彼らが苦悩する事はありません。
「私は駄目な人間だ」
「自分には生きている価値がない」
「このままでは居場所がない」
「生まれて来なければよかった」
自己肯定感の低さからくる、こういった種類の苦悩と向き合う確率と頻度は、私達に比べてエリートや成功者は圧倒的に少ないです。
なぜなら、自信がそれを覆い隠しているので、自己肯定感の低さを自覚しないからです。
苦悩がないなら、自己肯定感が低いままでもよいのでは?
いいえ。
その自覚のなさが社会に様々な害を及ぼしています。
日本は自己肯定感の低い人達が支配する社会です。
それが私達の生活を苦しめる原因にもなっています。
今回は、自己肯定感の観点から日本社会の構造と問題点について考察していきます。
自己肯定感と自信の違い
まずは、大前提として自己肯定感と自信の違いを明らかにしましょう。
自己肯定感とは

『ありのままの姿』を、義務や期待や他人と比較しない
自己肯定感とは、自分の『ありのままの姿』を肯定する感覚のことです。
『ありのままの姿』とは、誰かから値踏みや評価される事のない、見たままの自然な姿です。
社会的地位や、お金をどれだけ持っているか、家族や友人関係、住んでいる場所、誰かに評価された事などを除く、自分自身の自然な姿のことです。『ありのままの姿』は、年齢や経験によって常に変化しています。体だけではなく、精神的なことも含みます。
「義務を果たさなければならなかったり、他者の期待に応えたりしなければ、ここに存在してはいけない」というような強迫観念がなく、「ありのまま、ここに存在を許されている」「失敗しても大丈夫」「自分は自分の思うがままに生きていて大丈夫」という安心感に、無自覚に包まれている状態を言います。
自信とは
それに対して、自信とは「自分の価値や能力を信じている状態」です。
「自分の価値」とはつまり、「人に評価してもらえる事」「自分は人より優れている部分がある」「自分は人の役に立つ能力を持っている」という、他者との比較によって自覚されるものです。
人より優れていたり、人の役に立つ能力というのは、『ありのままの姿』には存在しません。
人に認めてもらえる結果を出したり、馴染める服装をしたり、地位や肩書き、お金など、『ありのままの姿』に上乗せされたものが自信となります。

『ありのままの姿』に上乗せした自信
自信は、往々にして義務や他者の期待を果たしていく事によって上積みされていく事が多いです。※別のケースもありますがここでは割愛します。
「学校で良い成績をとってほしい」→「良い学校へ進学してほしい」→「良い職業へ就いてほしい」→「高収入を得てほしい」
年齢や境遇によってエスカレートしていく義務や期待。これを『あるべき姿』と言います。
『あるべき姿』に近づこうと努力などをし、『ありのままの姿』に結果などを上積みしていく。
これが自信となります。

肥大化した『あるべき姿』と自信
『あるべき姿』は、年齢や環境の変化とともに、肥大化する傾向にあります。
そして、いつしか『あるべき姿』を自らの意思でどんどん肥大化させていき、努力などによって結果を上積みし続けていく事を「成長」と錯覚するようになります。
「成長」という呪縛
この「成長」を突き詰めたのが、いわゆる「エリート」と呼ばれる人々です。
エリートは自分にふさわしいと思う「交友関係」「学歴」「出世」「年収」「才能を証明する栄誉」「肩書」「所有物」等を望みます。
『あるべき姿』を高く設定してから、不足分を上積みしていくのです。
『あるべき姿』を自ら設定する理由は、『ありのままの姿』を否定しているからです。
「ありのままの自分で居る事は許されない」
「自分は成長しなければいけない」
こういう呪縛が心を支配しているからです。
そして、彼らは高い能力でそれを乗り越えてしまいます。
その結果、『あるべき姿』と『自信』が際限なく肥大化していってしまい、『ありのままの姿』との差がどんどん大きくなっていきます。

『ありのままの姿』と『あるべき姿』の差が大きくなっていく
エリートは『ありのままの姿』を否定していますが、自己否定感を覆い隠すほどの自信にあふれているので、苦悩する事がなく、それを自覚する事はありません。

自己否定感

自己否定感を覆い隠す自信
しかし、その自己否定感が目に見える形で表出する場面があります。
それは、他者を見る時です。
エリートが他者に向ける目は厳しいものです。それは自分が『あるべき姿』を実現し、結果を出してきたという自負があるからです。
自分に対して厳しくしてきた人は、他人に対しても同じ価値観で評価を下してしまうのです。
そして『あるべき姿』で友人となるべき人間を選別していきます。
相手の『ありのままの姿』には興味がなくなってしまうのです。
私達の多くのようにエリートではない者は、『あるべき姿』を高く設定しても、乗り越えられずに挫折してしまう事があります。
挫折は、自己否定感をもたらします。
挫折が何度も繰り返されると、自己否定感が苦悩となります。
そして苦悩を避ける為に、次は『あるべき姿』をあまり高く設定しないよう、現実的な目標値に下げるという事をします。

差を埋められずに苦悩する
その目標値が、若い頃の想定と比べてあまりにも低すぎたり、家族や親戚に受け入れてもらえなかったりすると、苦悩しはじめます。
「自分はなんて駄目な人間なのだろう」
「自分は価値がない人間だ」
「このままでは居場所がない」
「生まれてこなければよかったのに」
これらの苦悩を持った時に、自己肯定感の低さを自覚しはじめます。
そしてあまりに苦しくなると「どうすれば自己肯定感を高められるのだろう?」と考え、ネットで検索したり、本を探したり、カウンセラーを頼ったりするようになるのです。
学校教育~受け継がれる苦痛の連鎖~
『ズル休み』という言葉があるのは、本当はみんな学校に行きたくないからです。
『学校に通う』義務を果たす『あるべき自分』でいないと、友達や家族に自分の存在を許されないという脅迫観念が、私達の自己肯定感を低くします。
「我慢して机に座らなければならない」
「言われたとおり運動しなければならない」
「先生に逆らってはいけない」
「クラスにうまく溶け込まなくてはならない」
「宿題をしなければならない」
「良い成績を取らなければならない」
そして、我慢して学校に通い続け、なんとか無事に卒業できたとします。
そうすると、我慢して学校に通う事は「普通のこと」であり、卒業する事は『あるべき姿』であるという認識に変化します。

我慢があるべき姿に変化する
そして歳をとり、学校に通っていた頃の苦痛を忘れ、良い思い出ばかりが記憶に残る頃、他者や自分の子供に対して『あるべき姿』を押し付けようとする大人になります。
本人に押し付けている自覚はありません。
「常識」を語っているだけという感覚です。
子供が学校に通う事への苦痛を訴え、さみだれ登校や不登校になると、なんとか親は子供を学校へ行かせようとします。
苦痛があっても学校へ行く事が、子供の『あるべき姿』になっているからです。
『あるべき姿』へ向かう事が当然のことであり、義務であり、それが子供の為でもあると信じているのです。
子供には個人差があり、時代の変化もあり、学校に通う苦痛の種類も大きさも、親が感じてきたものとは全く違うものであるはずです。
しかし、苦痛を訴える子供の『ありのままの声』と向き合うよりも、親の中にある『あるべき姿』を優先してしまうのです。
不登校は子供にとっての「試練」であり、「乗り越えないとならないもの」「乗り越えて子供の自信を取り戻させたい」などと考える親もいるでしょう。
自信を「つける」のではなく「取り戻す」という感覚が、すでに間違っているのです。
その『あるべき姿』は、子供が生まれつき持っていたものでしょうか。
違うはずです。
親が子供に押し付けているのです。
では、親はその『あるべき姿』を誰に押し付けられたのでしょうか。
親の親です。
そして、親の親は『あるべき姿』を誰に押し付けられたのでしょうか。
エリート選抜社会~同期を蹴落とし、勝ち残る人々~
思春期と受験戦争の時期は重なります。
子供の成長と興味には個人差がありますが、それらは無視され、年齢で線引きされて一斉に受験戦争のスタートラインへ立たされます。
社会が決めた競争原理に、偶然、相性のよい顔と体と脳と環境に生まれる事ができた者は、勝ち残っていく事ができるでしょう。
しかし、子供は親を選ぶ事もできなければ、自分の体も脳も選んで生まれてくる事はできません。
社会と相性の良い個性と環境に生まれてくる事ができるかは運次第であり、ただの偶然です。自然界に平等はありません。
そして時間も平等には与えられません。
病気の人、疲れやすい人、障害のある人、家族の介護をする人、物を与えられない人、裕福でない人、愛されなかった人など。
様々な理由で、努力する為の時間を妨げられている人々がいます。
競争社会は個々人の事情をかえりみず、結果のみにフォーカスします。
そんな社会で、たまたま結果を出せてこれた人々が、大いなる自信をふりかざして社会の中枢や上層に存在しています。
たとえば、行政機関である11省2庁。
行政機関の官僚は、世代ごとに選抜されていくシステムで、同期を蹴落としていく人々です。(蹴落とされた者は省庁を退職し、天下りなどをします)
選抜されて生き残っていく彼らは、彼らにとって居心地のよい社会を作ろうとするでしょう。
自信はあるが自己肯定感が低いエリート達は、他人に厳しくなります。
なんでも自己責任を持ち出すようになります。
不景気も、多くの国民の老後の生活でさえも。
ビジネスの世界~企業がブラック化するしくみ~
サラリーマンは8時間戦う人々であり、ビジネスマンは24時間戦う人々です。
起業家、経営者、資本家など24時間戦うビジネスマンも、多くのケースで自己肯定感が低く、自信を振りかざしています。
資本家であれば経営者に対して、経営者であれば従業員に対して、起業家であれば起業家仲間同士で、厳しい目を向けあっています。
このブログの筆者である私は、かつて起業家の方たちの集まりに参加し、接点を持っていた事がありました。
彼らの会話には、独特ないくつかの共通言語がありましたが、その中でも「基準を高く持つ」という言葉がとても印象的でした。
「基準」とは、「これだけはやっておかなければならない」という最低限のラインを高く保つという事です。
多少の無理をしてでも自分が成すべきノルマを達成すること。
ノルマは自分の基準で決めるのではなく、メンターと呼ばれる師匠に決めてもらったり、常に先を行っている人を参考にし、上の基準に合わせられるように自分を高めていくこと。
基準という言葉を聞いて、私は『あるべき姿』を連想しました。

『ありのままの姿』と『あるべき姿』の差が大きくなっていく
彼らは基準に合わせようと努力します。
そして基準に満たないと自分を責め苛みます。
時にはメンターに叱咤されながら、無理をしてでも頑張ります。

差を埋められずに苦悩する
こうして『あるべき姿』を目指して結果を積み上げていくうち、自信を得る代償として、『ありのままの自分』を許せなくなっていき、知らず知らずのうちに自己肯定感を失っていくのです。
そんな彼ら起業家達が、従業員を雇う立場となった時、従業員に対しても「高い基準」を求めだす場合があります。
24時間戦うビジネスマンの論理を、8時間戦うサラリーマンにも当てはめようとするのです。
そして、それを「社会人として当たり前」であると信じます。
「十分な利益を上げていないのにどうして平気な顔をして定時で帰れるのだろう」
「業務量に対して十分な時間を与えているのに、終わらずに残業が発生したのは自己責任だ」
などと、自分が社員をうまくマネジメントできない事を棚に上げて考えてしまうのです。
それにうまく同調して気分良くしてくれる従業員や、逆らわずに都合よく言うことを聞く人材などを出世させ、イエスマンで固めた場合は、ワンマン経営となります。
そういった会社では法律や社会通念より社長の論理が優先され、ブラック化していく傾向にあります。
まとめ
このブログの筆者である私は、職業訓練校の出身者でもあります。
職業訓練校では資格取得のための勉強や訓練だけではなく、ビジネスマナーやキャリア形成など様々なセミナーを受けるのですが、その中で、未だに忘れられない講師がいます。
彼は70歳を過ぎた高齢者でしたが、年齢を感じさせない肌の艶と、元気で活発な声が印象的な、キャリアプランニングの講師でした。
彼はまず自分の生い立ちを話してくれました。
中学を卒業したばかりの15歳の時に就職し、
「一年に最低1つは資格を取ること」
「結婚して子供を2人育てること」
「年収1,000万円になること」
という人生の目標を立てたそうです。
そして毎朝、2時間前に出社して会社の掃除をし、時間が余ったら勉強や技術修練に励んだそうです。
自分の仕事に納得がいかなければ残業代はいらないから仕事をさせてほしいと責任者に懇願し、退社後は寝る時間も惜しんで資格を取る為の勉強を毎晩行ったそうです。
そして順調に出世して、彼が人を使う立場になった時、定時に出社し、定時に帰る部下を見下げ罵ったそうです。(彼は説教と言いましたが)
そしてその講師は、セミナーに参加する私達に言ったのです。
「成功したくば2時間前に出社しなさい」
誰も、何も言いませんでした。
思えば、私の両親も似たような考えの人達です。
テレビなどでブラック企業の話題が出るたびに自分の若い頃の苦労を誇らしく話し、それを当たり前だと言います。
「ブラック」は上層だけでなく、世間に広く浸透しています。
そんな彼らの世代が、今はマジョリティなのです。
私達の同世代ですら、勝ち組に乗ろうとする人々は『ありのままの自分』を受け入れず、進んで自己肯定感を喪失しています。
自己肯定感が低く、自信に頼って生きている人々は、他人に厳しくなります。
私は、他人への厳しさや自分への厳しさが、年間2万人の自殺と、年間3万人の孤独死(内、40%にあたる1万2千人が60歳未満)を生む原因の1つになっているのではないかと考えています。
社会はもっと優しくなる為に何をすべきでしょうか。
その為のキーワードの1つが自己肯定感ではないかと私は考えています。
※自己肯定感の診断の根拠を詳しく解説した、こちらの記事もおすすめです↓

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